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2017年12月24日

母校

番城ケ丘の校舎に問う(抜粋)

人は生まれ学び知性を得ながら、本能を抑えることで動物から人へ変化する。
人が指摘されて多くが反省しないのは、自己防御の本能が覚醒するからです。
反省するどころか、指摘が正しければ正しいほど、逆恨みするのが大半で、結果、多くは言動を控えてしまう。古井戸の中のようなある意味、平和な世界の田舎においては顕著な傾向です。

古井戸の中の世界をかき回す者は、例え正義の味方「月光仮面」であっても敵視されてしまう。
テロリストにも正義は有り、彼らにとって不都合な者は敵、そして敵の意見など聞く気はない。孤立して滅ぶことも彼らにとっては正義であり、他者の不幸や未来など存知の埒外となる。

時の知事、故貝原俊民知事は、県立津名高校の移転地先を津名の埋め立て地と決めていました。
時の町長、故柏木和三郎町長は諸般の事情で、知事の懐刀、故板野英彦副知事に嘆願し、副知事は財政課職員門康彦にその処理を命じました。

県道66号線津名五色三原線に繋がる裏門の道は、学校関係者が時の門康彦淡路県民局長に依頼し、学校完成までに整備されました。県財政課、県教委、県議会、旧津名町、地権者等の接点に居たのが私だったからです。

そして、2005年平成17年4月の移転新校舎のテープカットに淡路市初代市長として県財政課の仲間、時の吉本教育長と共に参加しました。

時は、時として面白い演出をするものです。私は、津名高校15回生、追試験で卒業証書を手にした初めての学生でした。津名高校が進学クラス1組を創設した初めての1組の大学に進学した生徒の中で、後輩にエールを送る会に私だけ、招聘をされませんでした。今流で言うと排除されました。

さて、津名高校野球部OB有志が、私の所へ、甲子園に出場するための方策を提案してきたことが有ります。
「これが最後のチャンスです」と懇願する後輩たちの熱意に負け引き受けました。

そして、それまで1回も行ったことのないS高校へ3回足を運びました。三顧の礼の思いでした。

ただ、私にとっては思いもよらぬ不都合な事が起こりました。当時の津名高校内部事情でした。
「野球部だけがクラブ活動ではない」と言う、教頭の言葉に代表されていました。

私の恩師であり、市長の支援者である先生からも事の是非について如何なものかという長文のお便りをいただきました。
私は、「野球部OBからの依頼です」と答えると、「そうか、それなら仕方ないな」という事でした。

思えば、事を成し遂げるためには長い蓄積が必要で、そうした歴史が母校には稀薄、理由は複数あって簡単なことではないようです。

今となっては、内部の確執、「それに巻き込まれたあんたが悪い」と言われれば「是非も無し」ですが、何処か釈然としない。

しかし、100年近い歴史を誇る母校津名高校が、後一歩で甲子園という夢を見させてくれた後輩たちに感謝し、さらなるエールを次世代の現役に送って駄文を終えます。

一回も授業を受けたことない番城ケ丘の校舎、愛着が無いのは当然で、淡路高校の団結力を実感しながら、母校の次の一手の捨て石になることを決意しています。
2020年は百周年記念、新生高校初代の女性同窓会長、高島先生を支えて、身の丈に合った手作りの祝典を目指しましょう!

しかし、故郷の闇は深く広い。
ここに今は書けない行間の密度に期待して、書斎から見える校舎にもエールを送りながら、
「斬れずに今一度襟を正さねばならない」と心に刻んでいます。(未定稿)

・主な出来事(門 日誌)
・市内視察

・淡路市スポーツ観光大使、住村竜市朗DEEPウエルター級チャンピオン。
 DEEP公式戦。尼崎アルカイックホール。金村副市長。岬議長